短歌は小難しいものではないと知った-『一握の砂・悲しき玩具』石川啄木
僕の中の短歌というものの概念がガラリと変わった一冊です。
石川啄木といえば
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はたらけど
はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
ぢつと手を見る
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不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心
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という短歌が有名ですよね。
国語で習いました。
そのほか国語で習う短歌で思い出すのは
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白鳥はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ(北原白秋)
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のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり(斎藤茂吉)
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とかですよね。
で、僕は短歌というと、小難しいイメージを持っていました。
あとは、何かエモいこととか、人生の苦悩とか、そういったものを言うのだと思っていました。
しかし、この『一握の砂・悲しき玩具』を読んで、そんなイメージは一新されました。
石川啄木は、めちゃくちゃしょうもないこと、生活の中でそんなところを切り取る?!みたいなことをわざわざ短歌にしていたりします。
いやでも、むちゃくちゃわかるな〜というのも多くてとても面白かったんです。
気になった短歌の中からいくつかを紹介してみたいと思います。
『一握の砂・悲しき玩具』より気になった短歌
鏡とり
能(あた)ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ
泣き飽きし時
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何かがあって泣いて、ひととおり泣いたところでしょう。
まだ泣いてはいるけれど、余裕が出てきて客観的な自分もいる。
泣いている自分ってどんな顔してるんだろう?と鏡をとって見てみる。そしてさらに泣いているまま色んな顔をしてみた。
という状況でしょう。
すごくわかるなー、と思いました。
外見はすごく泣いているけど、自分的には余裕がある。という感覚とでも言うのでしょうか。
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眼(め)閉づれど、
心にうかぶ何もなし。
さびしくも、また、眼をあけるかな。
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これも凄まじいですね。
眼を閉じた。
でも、何にも思い浮かばなかった。
そして眼を開けた。
という歌です。
何にもしていません。
深刻なフリをしてなのか、なにか考えたいことがあってなのか、大袈裟に眼をつむったりなんかして。実際のところは何も思い浮かびませんでした。みたいな滑稽な歌ともとれます。
石川啄木の中でもすごく好きな短歌です。
サライという歌の
「眼を閉じて何も見えず。淋しくて眼を開ければ」
という歌詞がこれから来ているというのを聞いたことがあります。
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旅を思ふ夫の心!
叱り、泣く、妻子(つまこ)の心!
朝の食卓!
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これすごくおもしろいと思いました。
場面としては朝の食卓。
「ちゃんと食べなさい!」なのか別のことがあって妻は子を叱り、子は泣いている。
その間、夫は「旅行にでも行きてえな〜」なんて呑気に考えている。
自分のことしか考えていない夫の滑稽な姿が描かれているようでおもしろかったです。